~町名由来シリーズ~ 神田須田町編

~町名由来シリーズ~ 神田須田町編

現行行政地名は神田須田町一丁目及び神田須田町二丁目で、住居表示に関する法律に基づく住居表示は、 町名のあたまに「神田」が付いているので未実施町です。

江戸幕府が編集した「御府内備考」によると、神田川右岸の農村地帯は、この界隈は須田村と呼ばれていたと書かれています。

江戸初期の慶長年間(1596年~1615年)に、この界隈を中心に「神田青物市場」の起源とされる野菜市が開かれたこともわかっていて、神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から荷揚げされた青物が、約4万9500平方メートルにおよぶ広大なこの神田青物市場で商われていました。

当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていたので、市場の中に町がありました。広大な市場だったので、中にある町も須田町だけでなく、多町、佐柄木町、通新石町、連雀町なども市場の一部にありました。そして、これら五町には八百屋が軒を連ね、連日のように威勢のいい商いが行われていました。青物市場の別名である 「やっちゃ場」は、その威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉です。

話しが逸れますが、秋葉原の電気街口の高架下から御徒町までの間を、JR東日本都市開発機構は
「CHABARA AKI-OKA MARCHE」として再開発しました。

この「ちゃばら(CHABARA)」は、かつてかけ声から「やっちゃ場」と呼ばれた「神田市場」と、「秋葉原」を組み合わせて造られた造語です。

神田青物市場発祥の地の碑

話しを戻して、江戸の食生活を支え続けた神田市場は、1923年(大正12年)、関東大震災で市場は全滅しましたが、すぐに復興し東洋一の大市場と言われるようになりました。

江戸時代には、明暦・天和の大火後、火除地を兼ねた広場が設けられ、道が八方に通じていたことから 「八つ小路」と呼ばれ、交通の要所でした。明治時代以降は、現在の東京駅に匹敵する、10本の運転系統が集まる都電の一大ターミナルとして発展しました。

神田市場は1928年(昭和3年)には、秋葉原西北(現在の秋葉原クロスフィールドが建つ駅前周辺)へ移転。

ところが1990年(平成2年)には、物流がトラック中心の時代になると、まとまった駐車場がない神田青果市場は、渋滞や混雑が酷くなり、大田区へと移転。それでも、現在の須田町町内には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗店が多く営業していて、商いの伝統の歴史が続く町となっています。

1836年に万彦兵衛が創業した万彦も、仲卸として神田市場に店舗を構えていました。千疋屋が仕入を任せている仲卸で、現在も須田町にビルがあります 。